「犠牲者」の伝統と、超越への想像力 宮澤淳一 |
メルヴィルの『モービー・ディック』が白鯨によって語られたならば、どのような作品になっただろう。謎の異生物(エイハブ船長)に執拗に追いかけられ、命を奪われる不条理な悲劇に変貌し、船長の死より白鯨の死に読者が共感がする物語となったはずである。ただし『モービー・ディック』が米文学でなく、「カナダ文学」であったならば、である。なぜか。いやそもそも「カナダ文学」などという枠組みは存在するのか。英米文学の亜流にすぎないのではないのか。これらの問いに正面から取り組み、カナダ人の国民意識を反映するアイデンティティを持つものとして「カナダ文学」が存在することを明らかにしたのが本書、カナダを代表する作家マーガレット・アトウッドの『サバィバル――現代カナダ文学入門』である。一九七二年に出版され、今なお説得力を失っていない名著で、すでに十三か国語に翻訳されている。
アトウッドはまず、カナダ文学の英米文学からの自立性を説くために、文化的シンボルの比較論から始める。アメリカのシンボルは絶えざる冒険や危険への興奮を伴う「フロンティア精神」、イギリスは安心感に満ちた自己充足的な「島」である(とすれば、さしずめドイツは「青年」、フランスは「ナルシス」、ロシアは「母」となるだろう)。 これに対し、カナダは、書名も示すように、「サバィバル=生き残ること」だという。歴史的にみれば、厳しい自然や敵対する先住民からの生き残りであり、フランス語圏のケベックにとっては英語文化圏からの生き残りである。またカナダという国家にとっては米国の経済文化圏からの生き残りを意味する。かくしてカナダ人は、個人、少数民族、国家等、あらゆるレヴェルにおいて、勝つことよりも、かろうじて生き残ることを求める「敗者」あるいは「犠牲者」となる。 アトウッドは、このモデルを携え、有名無名を問わず、豊富な作品例を挙げて(ただし自作は扱わない)、テーマ別の各論を展開する。死をもたらす敵対的な「自然」、犠牲者としての「動物」や「先住民」、敗北者としての「探検家と開拓者」、子供が逃亡の必要を感じつつも徒労に終わる「わな」としての「家族」、犠牲と失敗を約束された「移民」、無駄死をする「英雄」、認められず自滅する「芸術家」、厳しい自然の隠喩としての「老婆=女性」像、文化的・宗教的な生き残り主義のフランス語圏「ケベック」。どのテーマにおいても「犠牲者」や「敗北者」の像が浮かび上がり、すべてが「生き残ること」という伝統的なカナダの主題の変奏であることが、ユーモアを交え、小気味よく語られていく。 『サバィバル』は、カナダ文学・文化の本質を明らかにしたという点で、また、文学的想像力が風土によっていかに規定されるかの好例を示したという点で、すぐれた啓発の書である。本書で扱われていないカナダの文学作品において「犠牲者」の構図がどれほど有効なのか(すでに邦訳も多いアトウッド自身の作品もそうだ)、そして「生き残ること」への志向性が今日のカナダの美術、音楽、演劇等の文化や、現実のカナダ人のメンタリティにどれほど根づいているのか、私たちは確かめたくなる。 加えて私たちが気になるのは、これからのカナダの作家が、この「犠牲者」の伝統といかに取り組み、いかにそれを乗り越えていくかという問題である。実は本書の最終章「脱獄と再創造」もそれを示唆しており、同章の最後でアトウッドが読者に残す二つの問い、@「われわれは生き残ってきたのか」、A「もしそうならば、生き残ってその後なにが起きるのか」こそ、カナダの作家の今後の課題でもある。 一九九二年に書かれたデイヴィッド・ヤングの戯曲『グレン・グールド最後の旅』(拙訳、筑摩書房、一九九五年)はこの課題に取り組んでいるかもしれない。グールドは、「南=アメリカ」の勝利と栄光の世界としての殺伐とした演奏会活動から逃れ、「北=カナダ」のスタジオにこもり、「生き残る」。ヤングの慧眼はグールドの「北」への逃走を、単なる「生き残り」ではなく、「犠牲者」を克服する「超越」への旅と捉えた点にある。ここにアトウッドの最後の問いへの答えが試みられている。この戯曲には生涯の各時期を体現する〈神童〉〈演奏家〉〈完全主義者〉〈清教徒〉の計四人のグールドが登場するが、ヤングはこの戯曲の最終的な主人公を〈清教徒〉に設定し、残り三人の「グールド=犠牲者」を振り返らせ、@「われわれは生き残ってきた」ことを確認した上で、A「その後」の営みとして「人間的経験の超越」を追求させる。もっともこの「超越」とは何なのか、戯曲からはよくわからない。作者が依拠するカナダ的想像力の限界なのだろうか。いやそもそも「超越」とは人間の認識を超えた神秘の世界であって、これは文学そのものの限界なのかもしれない。いずれにせよカナダ人である作者ヤングは、「崇高なるものとの接触」を求めて芸術の探究を行なううちにこの世を去った〈清教徒=グールド〉に、カナダ的想像力の新しい可能性を信じている。 なお、今後私たちが注目するべきカナダの作家の代表格としては、スリランカからの移民であるマイケル・オンダーチェ(一九四三年生まれ)がいる。第二次世界大戦末期を舞台とする長篇『イギリス人の患者』(一九九二年のブッカー賞受賞作)の翻訳は、来春刊行予定と聞く(土屋政雄訳、新潮社)。この作品に『サバィバル』がいかに適用できるのか(あるいはできないのか)は、そのときに論じてみたい。 最後に、カナダ映画を論じた好著『映画とその神話的世界』(ハーコート著、晃洋書房、一九九四年)の訳者でもある、カナダ文学・映画の研究者、加藤裕佳子氏の丁寧かつ慎重な訳業を讃えたい。ただ、本文中の親切な補注の大半は訳文に織り込んでよかったと思う。また、原書の文献案内がその古さゆえに割愛されたのは仕方ないが、本文で言及された作家名の原綴りや作品の原題をすべてどこかに記し、索引も原書以上に充実させたならば、カナダ文学・文化を考えるときの基本書としてのこの翻訳書の利用価値はさらに高まったであろう。 アトウッドによれば、文学とは自分たちを映し出す鏡であり、心の地図であるという。『サバィバル』はもともと「私は誰なのか」「ここはどこなのか」をカナダ人がカナダ人に問いかけた書である。その意味で、私たち日本人は本書によって他者の鏡・地図を覗き込む貴重な機会を得たわけで、これは、比較論をとるか直観論をとるかはともかく、日本の鏡と地図を改めて考える反省の機会でもある。 |