Junichi Miyazawa,
"The Revival of Percy Grainger."
Shunju, June 1996.


甦るパーシー・グレインジャー
――自在なる音楽家――
宮澤淳一

『春秋』 1996年6月号(13-16頁)






   最近、かねてから紹介したいと思っていた作曲家のCD解説をまとめる機会に恵まれた。ジョン・エリオット・ガーディナー指揮モンテヴェルディ合唱団&管弦楽団が演奏した『ロンドンデリーの歌――歌とダンシング・バラード』(マーキュリー:フィリップス PHCP三三五)。作曲家の名はパーシー・グレインジャー(一八八二―一九六一)。合唱曲を集めたアルバムで、彼のいくつかのオリジナル作品のほか、《ロンドンデリーの歌》に代表される民謡の編曲作品(バラード、水夫の仕事歌などを含む)を集め、計十四曲が収められている。私は彼の小伝を執筆し、原盤所収の曲目解説および指揮者ガーディナーのコメント、そして歌詞を訳出した。

   グレインジャーの仕事だけを集めたアルバムが日本で発売(一九九六年三月)されたのは、事実上これが初めてとなった。そのことからもわかるように、グレインジャーは日本ではまだ知名度の低い作曲家である。いや、この人物を「作曲家」と呼ぶのは適当でないかもしれない。二十世紀の前半にあって、音楽のあらゆる分野で活躍したからだ。ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして活躍する一方、民俗音楽に関心を寄せ、みずからフィールド・ワークに出かけ、民謡収集を行なった。そうした民謡を編曲し、あるいは民謡にインスパイアされた作品を書いた。古楽(バロック音楽以前の音楽)にも興味を抱き、その復興にも努めたし、「自在音楽」と名づけた理想の音楽を求め、それを実現させる自動演奏機械の製作に取り組んだ。そういう意味で彼は実に「多才な人」だった。

   しかもグレインジャーは、魅力的な人物だった。彼の音楽作品(編曲も含む)がそうであるように、元気で、愉快で、激しい感情に満ちており、本人は大真面目なのだが、どこか常軌を逸している。指揮者ガーディナーはこう語る。

 「パーシー・グレインジャーに一度だけ会ったことがある。幼ない頃、大伯父のバルフォア・ガーディナーが私の家に連れてきたのだ(大伯父は、世紀末にフランクフルトの音楽院に学んだ英国の作曲家たちの集団「フランクフルト・ギャング」のひとりだった。[……]グレインジャーもそこに加わっていた)。グレインジャーは、全身バスタオルで作った衣装をまとっていて、バスタオルのターバンまで巻いていた。大伯父が静かに威厳をもって歩くのに対し、グレインジャーはスキップをして跳ねまわっていた。そのときすでに六七歳になっていたはずだ。しかし、グレインジャーとはもともとそういう人だったらしい」(拙訳、前掲CD所収)。

   そう、彼はそういう人だった。グレインジャーは二十世紀前半の音楽界をトリックスターのように駆けまわった「多彩なる夢想家」だった。そしてその生涯は、波乱に満ちていた――



   パーシー・オルドリッジ・グレインジャー(Percy Aldridge Grainger)は一八八二年 七月八日、メルボルン近郊のブライトンで生まれた。六歳より母親の手ほどきでピアノを習い始め、才能を発揮、一八九五年、十三歳のとき、有名な建築家であった父親を故郷に残し、母親とともに渡欧する。

   一八九五年から五年間、フランクフルトの高等音楽院にてピアノと作曲を学ぶ。当時の同地にはバルフォア・ガーディナー、シリル・スコットなど、英国の若い作曲家が多く留学していた。前述の「フランクフルト・ギャング」である。グレインジャーは彼らの仲間に加わり、刺激を与え合うことになる。また彼は(最終的には訣別したものの)のちにブゾーニとも知り合い、指導を受けている。

   一九〇一年、グレインジャーは母親とロンドンに移住。以来、コンサート・ピアニストとしてヨーロッパを中心に活躍する。当時知り合い、親交を結んだ晩年のグリーグをして「私のピアノ協奏曲のベスト・プレイヤー」と言わしめるほどの名声を獲得した。

   グリーグの影響もあって、グレインジャーは英国・北欧文化への関心を深める。彼は演奏会活動のかたわら、当時最先端のテクノロジーだった蝋管式録音機を携え、イングランド各地(そしてのちには北欧諸国)をまわり、民謡の収集を行なうようになり、これを素材に声楽から器楽までさまざまな「セッティング」(編曲作品)を作り、出版し、紹介に努める(茂木健『バラッドの世界――ブリティッシュ・トラッドの系譜』春秋社、一九九六年、二一四―二一七頁、参照)。

   《岸辺のモリー》《シェパーズ・ヘイ》、《スコットランドのストラススペイとリール》《ロンドンデリーの歌》などが代表作で、その多くはまず声楽版として出発し、のちに室内楽、管弦楽、吹奏楽など、次第にヴァージョンを増やし、大半が最終的にピアノ用に編曲された(4手用、独奏用に、難易度別にとさまざまに分化したが、基本的に音の密度は高く、和音を弾く手の1指ずつに強弱記号が付されるなど、指示も細かく難曲ぞろいである)。

   もちろんグレインジャーはオリジナル作品も多く書いた。ただし彼は交響曲やソナタといった既成のジャンルや形式を嫌ったため、どれも独特の題名のついた比較的短い作品である(やはり複数のヴァージョンが存在する)。今日親しまれているのは、《ストランド街のヘンデル(木靴の踊り)》《子供の行進曲「丘を越えて遥かに」》《固定されたド》《東洋的間奏曲》など、民謡の素朴さに想を得たような(それでいて複雑な手法の施された)快活な小品が多い。

   一九一四年、グレインジャーは母親とともに渡米し、ニューヨーク州に定住する。一九一八年には米国籍を得た彼はピアニストとしても活動を続けたが米軍の軍楽隊にも参加、吹奏楽曲も手懸けるようになり、組曲《リンカーンシャーの花束》などが世に出る。さらに《カントリー・ガーデンズ》がヒットし、作曲家としての名声も高まる。

   一九二二年、母親が自殺。息子との近親相姦の噂に耐えられなかったためとも言われるが、原因は不明。グレインジャーは心を痛めるが、その六年後の一九二八年、スウェーデンの詩人で画家のエラ・ヴィオラ・ストゥレムと結婚する。婚礼はハリウッド・ボールでのグレインジャーの演奏会の最後に行なわれ、二万人の聴衆の前でふたりは愛を誓った。

   やがてグレインジャーはみずからのオーストラリア人としてのアイデンティティを顧みるようになり、一九三八年、母国のメルボルン大学にグレインジャー記念館を設立する。同館は民俗音楽の研究機関を意図したもので、民俗音楽に関する各種資料を所蔵、展示しているほか、彼自身やディーリアスなど仲間の音楽家の自筆譜や書簡等の各種文書、記念品を収めたアーカイヴである。

   一九三〇年代以降、グレインジャーは、伝統的な音階・拍子・和声から解放された「自在音楽(フリー・ミュージック)」への関心を深め、晩年をその探求に捧げるようになる。これは若い頃からの理想であった「鳥の飛翔のような旋律、大洋の波のようなリズム、夕暮の空のような和声」の実現であり、彼はこれを奏でる自動演奏機械の開発に没頭し、いくつかのモデルを試作する(例えばそのひとつ、「カンガルーの袋マシン」【写真】は、ローラーに巻かれた四本の紙テープが走行し、その形状に従って上下するバーが発振器の抵抗値を変え、スピーカから音が出る)。製作は五〇年代。ちょうどシュトックハウゼンが電子音楽に着手したのと同時期であったが、数理的な電子音楽の発展とは対照的に、このグレインジャーの手作り≠フ試みは後継者が現われなかった。

   一九六一年二月二十日、ニューヨークのホワイトプレインズで癌のために没す。享年七八歳。自分の骸骨を記念館に陳列するように、との遺言であったが、遺骨は故国のアデレイドにある母方の墓に埋葬された。



   グレインジャーの存在は欧米諸国でも、これまでほぼ忘れられていた。無理もない。西洋音楽を優位なものとする従来の一元的な音楽史の捉え方からすれば、グレインジャーは無視できる程度の活動しかしなかった、つまりその音楽史の流れを大きく変えるような「大作曲家」ではなかったからだ。しかし今日、西洋音楽の優位性は(西洋文明のそれとともに)疑問視され、あらゆる民俗やジャンルの音楽が同等の価値と力をもって立ち並び始めている。そうした音楽文化の多元性を「音楽の民主主義」として今世紀前半にいち早く提唱し、驚異的な多様性をもって実践していた人物の存在に気づけば、世界が目を向けないはずがない。欧米ではすでに再評価が始まっている。伝記、著作集、書簡集、作品論等、すでに十指に余る研究書が刊行され、彼自身の演奏のSP録音やピアノロールのCD化も進んでおり、まだマイナー・レーベルが中心ではあるものの、作品の録音も相次いでいる。

   このディスクを聴くと、グレインジャーの音楽的要素の多様性とそれを束ねて放出するときの力強さに聴き手は圧倒される。物寂しい抒情をこめた《ブリッグの定期市》、郷愁を誘う《ロンドンデリーの歌》、猥雑な民謡《日曜日になればわたしは十七歳》、娘の父親殺しを歌った残虐なバラード《父と娘》のようなフォークロアを素材にした作品にしても、キプリングの詩に基づく悲劇《ダニー・ディーヴァー》や「草競馬」を巨大化した冗談音楽《フォスターに捧ぐ》のようなオリジナル作品にしても力強さがみなぎっている。語法的にみれば、半音階や五音音階あるいは特殊な旋法、複合的な和声、変則的なリズムを駆使した結果なのだが、他の作曲家の作品にはみられない密度がある。

   実はグレインジャーは今世紀初頭にこうした複合的な和声、変則的なリズムをいち早く開拓した人物である。その独自の音楽語法は、間接的とはいえ、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルクらにも影響を与えたと言われる。彼の業績の全容の解明を待ちたいが、グレインジャーの魅力は、そのような秘められた先進性にあるのではない。彼の音楽の最大の魅力は、その快活さ、楽天性、そしてそれゆえの力強さにある。この力強さは、一聴すると幼稚なもの、浅薄なものと誤解されやすい。しかし、少なくとも私はこう思う。これほどの明るさはその背後に深い悲しみの淵がなければ実現しえないものだし、また私たちは、そうした暗黒の淵を無意識に感じるからこそ、彼の明るさに惹かれるのだと。

   この淵の秘密を垣間見たい。その最大の手がかりとなる英文の伝記、ジョン・バード著『パーシー・グレインジャー』(一九七六年)は、今年、オックスフォード大学出版局より二十年ぶりに復刊する〔1998年出版〕。


N.B. 再録にあたっては、漢数字を算用数字に改めず、ほぼそのまま用いています。

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(C) 1997-2005 Junichi Miyazawa

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