Junichi Miyazawa,
"A Short Biography of Nikolai Medtner,"
liner notes for Denon COCO 78842, 1996


ニコライ・メトネルについて
宮澤淳一

CD『リツキー/夜の風』のライナーノーツより
(メトネル:ピアノ・ソナタ ホ短調作品25の2《夜の風》ほか,
ピアノ:ミハイル・リツキー,
日本コロムビア:デンオン COCO78842, 1996年1月発売)

リツキーによるメトネルのソナタ「夜の風」



今世紀前半を中心に活躍したロシアの作曲家・ピアニスト、ニコライ・カルロヴィチ・メトネルは1880年1月5日、ドイツ系ロシア人の両親のもと、モスクワに生まれた。6歳のとき母親からピアノの手ほどきを受け、モスクワ音楽院のピアノの教授でおじのフョードル・カルロヴィチ・ゲージケの指導を経て、12歳より同音楽院で学ぶ。ピアノを専攻し、ヴィーン楽派の流れを汲むアナトーリー・ガッリ、リストの弟子でドイツ出身のパーヴェル・パプストに習い、最終的にはレシェティツキーの弟子で、スクリャービンやラフマニノフも教えたワシーリー・サフォーノフに3年間師事する。1900年、ピアノ科の最優秀者として金メダルを受賞し、音楽院を卒業、ピアニストとして活動を開始する。



  デビューは同年10月、サフォーノフの指揮のもと、ルービンシテインの協奏曲を弾き、さらに11月にリサイタルでベートーヴェンの《ハンマークラヴィア》を取り上げ、どちらも成功を収める。以後彼は当代ロシアの名ピアニストのひとりとして活躍していくが、音楽院時代に対位法を指導したタネーエフの勧めもあって、以前から関心の強かった(しかしほぼ独学に近かった)作曲を本格的に進めることとなる。



  1909年より母校のピアノ科の教授に迎えられるが、多忙に耐えきれず翌年には職を辞すものの、第1次世界大戦の始まった1914年には復職している。



  1916年、作曲活動が評価され、グリンカ賞を受賞。翌1917年、十月革命が勃発、その頃すでに親しかったラフマニノフなどのあとを追い、妻アンナ(1919年結婚)とともに、メトネルは1921年に国外に出る。彼としては一時的な出国であって、「亡命」のつもりではなかったが、1927年の演奏旅行での一時帰国を除いて、以降彼は西側で生涯を送ることとなる。



  彼はドイツを最初とし、演奏旅行をしながらヨーロッパや米国各地をまわり、演奏・作曲活動両面で評価を得、やがて1925年、パリ近郊に定住する。当時のパリには有力なロシア人コミュニティが存在し、ディアギレフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフら前衛的な芸術家たちが活躍していたが、そこは保守的なメトネルのなじめる世界ではなく、彼の音楽作品もパリではほとんど評価されなかった。むしろ彼の評価が高かったのは英国で、1928年には王立音楽アカデミーの名誉会員になり、やがて熱い歓迎を受けて、1935年、ロンドンに移住する(ちなみにメトネルは同年、ラフマニノフの尽力で、ロシア語の著書『夢想と流行』をパリで出版し、みずからの音楽観を述べ、当時の前衛的な作曲の潮流を批判したが、ほとんど反響を呼ばなかった)。



  英国での生活は、インド系の作曲家ソラブジ、音楽学者でロシア音楽の権威ジェラルド・エイブラハム、音楽批評家エリック・ブロムらの支援のもとにまずまずの充実をみるが、最大の支援者は、心臓病のために演奏活動の制限されるようになった1944年の2年後に現われる。南インドのマイソール(現カルナタカ)のマハラジャ、サー・ジャヤ・チャマラヤ・ワディヤールであった。このマハラジャはかねてから愛好していたメトネルの音楽が不当に過小評価されていることを憂い、巨額の私財を投じ、メトネル協会を設立する。その基金に基づき、1940年代後半から1950年にかけて、ヒズ・マスターズ・ヴォイスにおいて、協奏曲3曲を含む主要なピアノ曲と、シュヴァルツコプなどとの共演によるいくつかの声楽曲が、作曲者自身の演奏で録音される。これによって、メトネルのピアニストとしての技量と、その作品の正統な解釈の規範が後世に貴重な記録として残されることとなった。



  1951年11月13日、心臓発作により没す。享年71歳。残された妻アンナは、メトネルの作品全集を出版したいというソビエト文化省の意向を受け、1958年、自筆譜を携え、母国に戻る。メトネル作品全集(全12巻)がモスクワで出版されるのは、1959年から1963年にかけてのことである。





HMVのスタジオにて(1947年)



  あるときメトネルは、プロコフィエフの作品を聴いて、「あれが音楽なら、私は音楽家ではない」と語ったというように、20世紀ロシアにあって、彼は未来派的な前衛にくみする人ではなかった。彼は、古典派的な様式を重んじる「ソナタ形式とともに生まれてきた男」であり、ドイツ・ロマン派的な書法に強く影響を受けた「ロシアのブラームス」であった。だが彼の音楽の最大の特徴はロシア語で言う「スチヒーヤ」にある。これは「本源的な万物のエネルギー」を意味し、濃厚でありときとして突発的なロシア的感情表現のメタファーとして用いられる言葉であるが、メトネルは、そうしたものの力強さを損なうことなく、堅固かつ洗練された、しかも独自の意味で実験的・前衛的な形式の中にそれらを盛り込むことのできた稀有な作曲家だと言えよう。



  今日、ロシア内外でメトネル再評価の気運が高まっている。欧米では彼の作品のディスクの発売点数も少なくないし、ロシア人ではボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・トロップ、イリーナ・メジューエワ、そして本盤のミハイル・リツキー、英国人では作品の録音を精力的に進めているハーミッシュ・ミルン、日本人では熊本マリなど、メトネルに注目しているピアニストも多い。また最近英国ではメトネルの評伝も出版された (Barrie Martyn, Nicolas Medtner: His Life and Music, London: Scolar Press, 1995)。新世紀も近づき、ニコライ・メトネルの名は20世紀のロシア音楽とその想像力の世界を語る際に無視することのできない存在になっていくであろう。
‐(1995年12月)‐





N.B. リツキーのアルバムは廃盤です.このアルバムの出た頃に較べると,メトネルの知名度もずいぶんあがりました.

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(C) 1997-2005 Junichi Miyazawa

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