本書は、1930年生まれのロシアの「前衛」作曲家ニコライ・カレートニコフの回想録である。モスクワでロシア語版が、パリでフランス語版が、それぞれ出版されたのは1990年。邦訳刊行も準備に入り、その一部分が武満徹監修『MUSIC
TODAY』第20号「特集 ロシアの現代音楽」(リブロポート)に先行掲載されたのが1994年4月。カレートニコフはその年の10月に急逝している。
カレートニコフの知名度は、少なくとも日本では、低い。録音も、国内盤としてはアナトーリー・ヴェデルニコフのアルバムの1枚に、厳格な十二音技法で書かれたピアノ曲《レント・ヴァリエーション》が収められているにすぎないし(『ヴェデルニコフの芸術 17――20世紀ロシアの作品』日本コロムビア :デンオン COCO-78872、1996年)、外盤も数点しかない(訳者解説参照)。しかし彼は、デニーソフ(1929年生)、グバイドゥーリナ(1931年生)、シニトケ(1934年生)などと並んで、スターリン時代に成長し、二十代後半に「雪どけ」の数年間を謳歌し、以後ペレストロイカまでの「凍てつき」の不遇な時代を堪え忍んできた実力派のひとりなのである。彼は、モスクワ中央音楽学校、モスクワ音楽院で学んで作曲家となり、映画音楽・舞台音楽の作曲を中心に地道に生きてきた。その作風は、『ニュー・グローヴ音楽事典』(Stanley Sadie, ed., The New Grove Dictionary of Music and Musicians, London: Macmillan, 1980)によれば、「初期の作品はムソルグスキー、ショスタコーヴィチ、ヴァーグナー、マーラーに影響を受けたもので、辛辣な和声様式と、熟達した管弦楽法を発揮した。その後シェーンベルクとヴェーベルンの音楽への関心から、厳格な十二音技法と、さらに発展した管弦楽の様式を用いるようになってい」たという(拙訳)。
本書の原題は『主題と変奏』(Темы с вариациями)であるが、5番目の断章「最初のレッスン」で恩師シェバリーンが語る言葉こそ、本書の、そして彼の生涯の、主題だったのかもしれない――「自分の思いどおり作曲したくなったときには、きみはいやっていうほど、こっぴどくぶちのめされることだろう。その覚悟をしておかなくちゃならん」(36−37頁)。
音楽院在学中から、そして卒業後も、彼は「思いどおり作曲」すること、表現・行動することを妨げられる。交響曲に「葬送曲」を織り込めば、不自由のないソヴィエト市民には「悲劇を書く権利」などないと批判され、コンテストで選ばれたチャイコフスキー・コンクールの課題曲は没にされ、大作は買い叩かれる。1961年、成功作であったバレエ音楽《ヴァニナ・ヴァニニ》は、十二音技法で書かれたためか、「悪意にみちた敵陣営の反撃」と評価される。以来、ペレストロイカの日まで、彼は音楽界の中心から遠ざけられてしまう……。恩師の言葉は数々のエピソードとなって「変奏」されていく。
本書の特色は、そうした深刻であるはずの「変奏」が個々の完結性をもって、しかも淡々と奏されるところにある。その秘密はカレートニコフの超然的な視点にある。つまり、彼は「今・ここ」の出来事における人々の言動を描写するにとどめ、その分析を試みたり、そのときや事後の自分の心情を記述しようと努めないのであって、独特のユーモアやアイロニーもそこから滲み出てくる。その意味で本書は、苛酷なエピソードと苦悩する芸術家の心情とが渾然と綴られていく名著ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳、中央公論社、1980年;中公文庫、1985年)とはまた違った魅力を放っている。もっとも、カレートニコフの超然的な視点、アイロニーとユーモアは、単に文体上の戦略なのではなく、苦渋を蹴散らし矛盾の世界に共棲したカレートニコフとその同時代人たちのしたたかさそのものなのであろう。ロシアの芸術家の力強さをかいまみる思いがする。
そして本書を彩り、さらに魅力あるものにしているのは、同時代の音楽家・作家たちのエピソードである。やはり超然的な視点から語られるが、評価している人物に対しては、暖かい讃辞の言葉を惜しまない。例えば、バフチンと親交の深かったことでも知られるピアニストのマリア・ユージナについて、こう語る――「彼女が《現代音楽》によせる愛は、じつのところ、理論的なものというよりはむしろ情緒的なものだった。彼女はしばしば、作曲家の論理的意図、あるいは、構成的意図を理解しないまま、いきなり、直観的に多くの作品にアプローチしたものだ。[……]しかし、マリア・ヴェニアミーノヴナ[・ユージナ]の端倪すべからざる直感、深く巨大な情念エモーシヨン、音楽家および人間としての繊細な知性は、こうしたすべての《欠点》をおぎなってあまりあるものだった」。また、初めて接した新ヴィーン楽派の音楽を罵倒しつつも次第にそれに魅了されていったピアニストのゲンリフ・ネイガウス。著者に謎めいた質問を浴びせ、先達を超えよ、自分に自信を持てと、教える(と理解できよう)「バッハ解釈の第一人者」サムイル・フェインベルク。彼らの逸話も興味深く、最近相次いでCD化されたその録音を聴く楽しみも倍増するだろう。
52の断章のあとに、付論として2つの小論「映画音楽について」と「人類のコンサート・ホール」が、および「訳者解説――芸術のエチカ」が収められている。
まず「映画音楽について」においてカレートニコフは、「映画と音楽的要素の相互関係」(221 頁)の重要性を慎重に述べ、それを無視する映画音楽の流行の交替(ビート音楽→「ヴィヴァルディ風」の十八世紀音楽→ロック→穏やかなピアノ曲)を批判する。
第2の付論「人類のコンサート・ホール」では、テクノロジーの発達から全世界規模のネットワークによって、聴衆も直接参加できる「全世界的コンサート」(228頁)が生まれ、それが「新しい《楽器=道具インストルメント》」(230頁)となることを予見し、その扱い方が全人類の課題であることを説く。このマクルーハンの主張の復唱にも思える小論が、いつ、どのような契機と意図をもって書かれたのかは不明だが、マクルーハン再評価の始まったインターネット時代の今日においては無意味とは言えまい。ただ、バッハの基礎を受け継ぎ、ハイドンに始まりシェーンベルクに終わった「ウィーン楽派」の音楽こそが「音楽史上最高の成果」(237頁)であり、全人類が受け継ぐべき「伝統の衣鉢」(238頁)であるという結論は性急で、彼の音楽観を知る端緒とはなれ、世界中の民俗音楽の等価値の叫ばれる現代においては説得力に欠ける。
訳者あとがきを兼ねた30頁近い長文「訳者解説――芸術のエチカ」は本書の価値を高めている。前掲『MUSIC TODAY』第20号所収の 「いまだ書かれざるソ連音楽史の余白に」を拡充したもので、ソ連音楽史を通覧する貴重な論考である。巻末の「カレートニコフ略年譜および音楽年表」および詳細な人名索引と合わせて資料的価値も高い。
訳文は明晰である。丁寧かつ誠実な訳業で、原文のニュアンスを伝えるべく細心の注意が払われている。ただ、人名のトランスファーに関して、〈姓〉は〈姓〉のままに、〈愛称〉は〈愛称〉に、〈名+父称〉は〈名+父称(+姓の補足)〉にする原則は誠実さの現われであるが、地の文においてそれを貫くのは日本の一般読者を戸惑わせよう。
最後に、本書はロシア音楽に限らず、ロシア文学・文化に関心のある者にとって興味深いエピソードの宝庫であることを強調したい。好例は25番目の断章「葬儀はどのようにおこなわれるか?」(88−97頁)である。
これは1960年6月2日のパステルナークの葬儀をめぐる回想で、カレートニコフはペレデルキノに出向き、詩人の柩をかつぐ。葬列において「大部分の群衆は道路にそって歩いたが、一部の人たちは長い列をなして野原をまっすぐ突ききってきていた。それは[パステルナークの]『八月』の数行を思い起させた。墓地に近づくと、ハンノキの林を通りぬけてくるものさえいた」。墓地で弔辞が述べられ、柩が墓穴に降ろされると「多くの人々が語り始め、ほとんどすべての人々が口々に『八月』を朗誦しはじめた。[……]なににもましてわたしを驚かせ、永遠に記憶に刻み込まれたのは、静けさ、何千人もの人々の息づかいと、ゆっくりと歩んでゆく何千もの足音にみちた、悲しくも痛ましい静けさであった。このような静寂を、どこであれ、その後、二度とわたしは体験したことはない」。
その一部始終を聞いた友人は言う。「ひとりの人間の葬儀というものは、しばしば、人が生涯になしとげたこととまっすぐにつながっているものなんだよ」。プロコフィエフしかり、チェーホフしかり、スターリンしかり。そしてゾーシチェンコの葬儀は、彼が「偉大な作家」であったか「有名な作家」であったかで作家たちがもめる「いかにもゾーシチェンコが短篇小説に書きそうな」「葬式というには、それはあまりにも陽気なできごと」だったという。
困難な時代に良心を保ち、苦渋に苛まれることなく、ユーモアとアイロニーを発揮してささやかな抵抗を続けながら、したたかに生き、創作活動をあきらめなかったカレートニコフ。1994年10月9日、彼はモスクワで没した。享年64歳。死因は本書には明示されていないが、一説には癌であったと聞く。その葬儀はどのようなものだったのであろうか。
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