Junichi Miyazawa,
"Alberto Guerrero, Glenn Gould's Teacher" (in Japanese),
Record geijutsu 49, no.5 (May 2000).

グレン・グールドと師ゲレーロ
封印された影響の事実
宮澤淳一

『レコード芸術』第49巻第5号(2000年5月号)


●ゲレーロが開花させたグールドのレパートリー

  グレン・グールド(1932―1982)は、事実上独学だったと語った。母親のピアノの手ほどきを受けたあと、10歳から20歳までトロント音楽院でアルベルト・ゲレーロに師事したが、そのレッスンは議論の場であったにすぎない、と。だが、グールドの死後、実は彼の選曲、技巧、練習方法において、ゲレーロの影響が大きかったことが明らかになっている。

  ゲレーロは1886年チリ生まれ。彼が受けた教育については不明だが、ピアニスト、指揮者、批評家としてまず現地で活躍。多くの音楽家を育て、チリで初めてラヴェルやドビュッシー等、同時代のフランス音楽を紹介し、またサンチアゴ初のオーケストラを創設している。1914年に母国を離れ、ニューヨークでのキャリアを経て、22年にトロント音楽院に迎えられる。演奏活動のかたわら、1959年に没するまで同音楽院で後進の指導にあたった。二十世紀前半のカナダの音楽界に最大の貢献をした人物のひとりとして、今なお敬われており、グールド以外にも多数のピアニストを輩出したほか、作曲家のジョン・ベックウィズ、オスカー・モラヴェツ、マリー・シェーファーなども師事している。

  そんな神様的存在の前でのグールドは一種の「天の邪鬼」だった。「グレンには、こうしろと言いさえすればいい。必ずこの逆をするから」とゲレーロは語っていたというが、彼にさまざまな音楽を紹介されたグールドは、それを選択的に受け入れ、レパートリーを築いていった。バッハの《ゴルトベルク変奏曲》を紹介したのもゲレーロだったらしいし、新ヴィーン楽派の世界にグールドに開眼させたのも彼である。ベックウィズの回想「いくつかの神話を剥ぐ」(マグリーヴィ編『グレン・グールド変奏曲』所収)によれば、ゲレーロはシェーンベルクの《3つのピアノ曲》作品11や《6つのピアノ小品》作品19をトロントでの演奏会でよく取り上げていて、47〜48年頃、レッスンでグールドにこれらの曲を紹介した。「[グールドの]最初の反応は拒絶だった。シェーンベルクと無調について、非常に激しい議論となった。……ところが数週間後、グールドは同じスタイルで書いた自作の曲を持って現われた」という。「異常なほどの吸収の始まり」が訪れ、52年にはシェーンベルク、五四年にはヴェーベルン、ベルクの曲がグールドの演奏曲目に加わっていた。



●秘伝の練習法を経て《ゴルトベルク》を録音

  しかしグールドがゲレーロから学んだのは音楽的素養だけではない。「鍵盤に向かうときのグールドの身体的外見は、私が思うに、他のどの弟子よりもゲレーロ的だった。指先の角度も、低く座る姿勢も(後年もっと低くなっていったが)。彼の『純粋に指のみを用いるテクニック』もゲレーロのそれを髣髴とさせる。有名な素速いノンレガート奏法もその延長線上にあると言えるだろう」(前掲)。

  そしてグールドは特別な練習方法もゲレーロから伝授されていた。フィンガー=タッピングという独自の方法で、これを初めて詳述した兄弟弟子ウィリアム・エイドによれば、「弾きにくいパッセージをむらなく、容易に弾けるようになるための、退屈で極端な、しかもカルトめいた練習」で、手から余分な動きを除去し、弾きたいパターンとの親密で触感的な関係を確立させる」ものだという。略解すれば――(1)「骨抜き」の状態で鍵盤上に置く、(2)片手の各指先を、弾きたい音型のとおりに、もう片手の指で順次叩いて(タップして)打鍵させる、(3)手の力を復元させて同じ音型や和音を弾く、という手順である。この奏法の詳細や起源については、精神科医ピーター・オストウォルドの書いた新しいグールドの伝記『グレン・グールド伝――天才の悲劇とエクスタシー』(拙訳、筑摩書房)に説明があるが、グールドはこの時間のかかる練習法で《ゴルトベルク変奏曲》全曲を32時間かけてさらい、1955年のデビュー盤の録音に臨んだという。エイドの場合、不要と判断されたらしく、この練習方法は指導されなかったものの、他の多くの弟子たちがこれを伝授されている。

  以上のような事実をグールドは封印し、師への感謝を一切公言しなかったため、ゲレーロは傷ついたという。グールドが彼を切り捨てた理由はわからない。誰の影響を受けずに出現した孤高の天才像をみずから築き上げたかったのだろうか。



●ゲレーロとグールドをつなぐ秘密

  ゲレーロの録音は「偽作」しか残っていない。それは、《イタリア協奏曲》の48年3月録音で、グールドの没した翌年の83年に米ターンアバウトからLPとして発売されたグールドの最初期録音アルバム『ザ・ヤング・グレン・グールド』に収録された音源である(国内盤は同時期にワーナー・パイオニアから発売)。この盤はのちに2度CD化されたが、2度目の93年発売の盤〔加マスターサウンド(M)DFCDI-024〕には、この曲の演奏者に「ゲレーロ」との記載がなく、グールド本人の演奏という可能性すら示唆された。しかし録音提供者(ゲレーロ未亡人)と仲介者(トロント大学のアーカイヴィスト)がすでに故人であり、関係者数名に尋ねても、オリジナルのアセテート盤の行方もわからず、真相は不明。演奏者はグールドでもゲレーロでもない可能性(他の弟子か)さえある。





Fanfare DFCD-9032 (rel. 1987) / Mastersound DFCDI-024 (rel. 1993)


  それでもこの演奏には、グールドと共通する「対位法的な声部における明晰さと躍動感」(ベックウィズ)が確認できるし、第三楽章の軽快なテンポなどはグールド的と言えなくもない。逆に後年のグールドの《イタリア協奏曲》(1959年録音)と対照的なのは、テンポの揺れとペダリングの多用である。もっとも、グールドがCBCに残した同曲の52年10月の放送録音〔日本コロムビア(M)CXCO 1029alには、終止形の前などでテンポの揺れが若干みられ、ペダリングにも気づくことから考えると、十代のグールドは、ゲレーロの影響下、「明晰さと躍動感」をすでに体得していたと同時に、ロマンティックなバッハ解釈から出発していたことが推定できるのである(なお、同盤には四七年六月録音のモーツァルトの各種連弾曲が併録されているが、これは、グールドとゲレーロの共演ではなく、弟子のロバート・フィンチとゲレーロ夫人によるものである可能性が指摘されている)。

  2000年1月21日、トロント大学ウォルター・ホールで、私は前述の兄弟弟子エイド(38年生まれ)のリサイタルを聴いた。ベートーヴェンとブラームスが曲目で、音量は大きくはないが、確かな技巧の持ち主で、声部も明晰、歌い方も抑制が利いていて心地よい。その堅実かつ丁寧な弾きぶりに、ゲレーロとグールドをつなぐ秘密が隠されている気がした。ショパンの練習曲を収めた彼のアルバムも好演で、同様の印象を受ける〔加CBC(D)MVCD 1017〕。





CBC Records MVCD 1017



N.B. 再録にあたっては、漢数字を適宜算用数字に改めています。

その後,2000年1〜3月のトロント大学滞在中、大学のホールにてウィリアム・エイドのリサイタルを聴き、また彼にインタヴューを行ない、いろいろな話をしました。彼はフィンガータッピングの練習をヴィデオカメラの前で実演してくれました。興味深いものでした。

ゲレーロとの関係については,拙著『グレン・グールド論』(春秋社,2004年)の
第2章(演奏論)でも、触れています。



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(C) 1997-2005 Junichi Miyazawa

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