Junichi Miyazawa,
review of Margaret Atwood, Alias Grace,
translated into Japanese by Ayako Sato (Tokyo: Iwanami Shoten, 2008),
Bungakukai 62, no.8 (August 2008): 224-5

真相を解明せずに救い出す手法
宮澤淳一
<書評>
マーガレット・アトウッド作
『またの名をグレイス』(上・下)
佐藤アヤ子訳(岩波書店,2008年)
『文學界』第62巻第8号(2008年8月): 224-5頁
 真相を解明するのは常に正義であり、善なのか?――そうではない、と教えてくれたのは、カナダの監督アトム・エゴヤンの『秘密のかけら』(二〇〇五年)だった。女性ジャーナリストが芸能界の殺人事件の真相を解こうとした結果、無用な幻滅と苦痛を味わい、また、当事者を破滅させる不幸な物語である。では、真相を解明することなく、別の働きかけによって不遇の当事者を救うことはできないか。カナダを代表する作家マーガレット・アトウッド(一九三九年生まれ)の長篇小説『またの名をグレイス』(原書刊行一九九六年)は、それに対する一個の答えである。

 この小説は、カナダが自治を獲得する四半世紀前に北米と英国を騒がせた、ある殺人事件に基づく。一八四三年七月、カナダ東部の田舎町で、独身の地主キニアとその女中頭で愛人(妊娠していた)のナンシーが惨殺された。犯人とされたのは、使用人ジェイムズ・マクダーモットと女中グレイス・マークスで、両名は逃走先の合衆国でほどなく逮捕。十一月にキニア殺害の裁判が行なわれ、死刑が確定(ゆえにナンシー殺害については審理されず)。同月中にマクダーモットは絞首刑となるが、グレイスは弁護士や有志の努力で終身刑に減ぜられ、懲治監に収容された。グレイスは当時十六歳であり、その若さや「女であるゆえの弱さ、愚かしさ」が考慮されたという。

 この事件は当時の人々の好奇心を駆り立てた。はたしてグレイスは不品行で、男を誘惑し、キニア殺害をそそのかしたのか、さらにはナンシー殺害の実行犯であったのか、あるいは品行方正で、事件に巻き込まれたにすぎないのか。容疑者両名ともに供述を翻したこともあり、真相はわからず、さまざまな憶測が新聞をにぎわした。また、収監後のグレイスは異常を示して精神病院に移されていた時期があり、当時の作家スザンナ・ムーディが懲治監や病院でのグレイスの様子を報告し、彼女が男を操り犯行に及んだとするメロドラマ的な解釈まで書き残している。

 アトウッドはムーディの著作を通してグレイスの存在を知った。彼女の「有罪」を確信し、一九七四年にテレビ・ドラマの台本まで作った。しかし、その後もグレイスのことが気にかかり、「自分の言い分を聞いてほしいというグレイスの要求が聞こえ、本書を書くに至った」(訳者あとがき)という。アトウッドはグレイスの「言い分」と事実関係を精査した。当時の裁判記録、新聞記事、監獄や病院の記録等にあたり、関係者を同定させ、時代考証も徹底した。既知の事実は生かしつつ、矛盾する情報は選択し、不足は想像力で埋めた。その結果、この長篇が生まれ、カナダの歴史小説ブームの先駆けとなった。

 さまざまな話法と語りに満ちた全十五章(計五十三節)の中心はグレイスの独白であり、アイルランドでの生い立ちから、移民、女中としての職歴を積んで事件に到るまでが語られる。その「言い分」を聞くためのアトウッドの工夫は二つ指摘できる。第一に、事件から約十五年後の、収監中の役務として監長宅で働く三十一歳(一八五九年)のグレイスを設定したこと。第二に、事件時の記憶の空白を探ろうとする架空の精神科医サイモン・ジョーダンを聞き手に配したこと、である。結果としてグレイスは、過去の供述に束縛されずにすべてを語り直せることになったと同時に、彼女の記憶はジョーダンとの相互関係の中で新たな脚色が施されることにもなった。

 そもそも記憶とは不完全で可塑性の高い情報であり、意図の有無に関わらず、言語化されるたびに内容は脚色されてしまう(グレイスが終始熱中するキルトの「刺繍」を指す "embroidery" には「脚色」の意味もある)。つまり、ジョーダンに対する警戒心と信頼心の間で揺れ動きながら言語化されるグレイスの記憶とは、額面どおりに信じられないかもしれない。しかしその発話の瞬間にこそ、グレイスという存在は真実味と魅力をもって甦る。アトウッドは、現代人にも共感できる心の動きを鮮やかに描き出すのである。

 ところで、アトウッドが施した最大の工夫は、逃走時のグレイスが用いた偽名「メアリー・ホイットニー」の正体を創作したことであろう。作中のメアリーはグレイスの昔の奉公先の先輩格の女中であり、悲惨な最期を遂げた。それは彼女と親しかったグレイスの心の傷となり、殺人事件との関連も示唆される。その関連性が前景化するのは、グレイスが支援者たちの前で催眠術をかけられるときである。突如として登場するメアリーの「声」は、霊の憑依とも、多重人格の証拠とも、術師のペテンともとれるため、事件の真相はむしろ永遠の謎と化す。しかもこの施術の場面が人々にグレイスの無実を確信させ、やがて特赦に結びついたとする創作は見事である。

 釈放され、米国の「用意された家」に送られて以後、歴史上のグレイスの消息は途絶えたという。アトウッドは作中のグレイスを意外な人物と再会させ、幸せな後半生をプレゼントする。徹底的な史料調査と時代考証も、大胆な推理も、真相解明のためではない。解明しなくても、虚構の力を活用することで、歴史の監獄からグレイスを救い出し、読者とともに祝福できるのだ。

 ところで邦題「またの名はグレイス」は本文同様に名訳だが、原題は Alias Grace という。「エイリアス(アリアース)」とはラテン語で「別の時には」(at another time) の意味であり、英語等では「別称〜」「偽名〜」の意味に転じ、犯罪者のニュアンスも伴う。実際、事件当時の新聞に載った似顔絵(上巻九頁)には「グレイス・マークス、偽名メアリー・ホイットニー」(Grace Marks, alias Mary Whitney) と記されている。メアリーばかりかグレイスも「偽名」であったとすれば、彼女の「本名」とは何か。さらに彼女とは「誰」なのか――。アイデンティティをめぐる本質的な問いが潜んでいるようだ。

N.B. 再録にあたっては、漢数字を算用数字に改めず、そのまま用いています。


なお、アトウッドにつきましては,『サバィバル』の書評もご覧ください。

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(C) 1997-2011 Junichi Miyazawa

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